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歌はなぜ歌か

ひさびさ設置者の雑談です。
近く、アンコンで歌うモンテベルディの4声のミサ・クレドについても書くかもしれませんが、その前に。

歌がなぜ歌として存在しているのか。

そんなことを、最近練習でときどき思います。

たとえば、作詩されたものに作曲家が曲をつける。
でも、作詩されたのだから、曲がなくてもその詩は十分魅力的だし、意味がある。
それになぜメロディとリズムをつけて歌うのか。合唱ならば、それになぜハーモニーをつけて歌うのか。
朗読する人が勝手にメロディをイメージして、「詩は歌う」のであればともかく、特定の作曲家の個人の価値観を表現した作曲の下で、特に合唱は全員がコンセンサスをもって表現しているわけです。
そこに何の意味があるのだろう‥。

(ちなみに、詞と詩の違いはこの書き込みでは重要です。厳密にはともかく、おおまかには、詩は、曲をつけることを前提としていないテクスト、詞は曲をつけることを前提としているテクストです)。

合唱曲の中には、作詩ではなく、作詞のものもずいぶんあります。
でも、作詞された詞にも、曲がなくても魅力的なものはたくさんあるし、名作として歌い継がれている歌の詞は、みな、曲がなくてもすごい、と思うものばかり。

ならば、なぜ、それは詩や詞で存在するのではなくて、歌で存在しているのか。
ましてや、それを歌手は自らの解釈と表現で(多くは伴奏者=アドバイザーの意見をふまえて)、合唱は指揮者が解釈し、それに(合唱団のカラーによってことなるでしょうけれど)賛同して、個々の団員が自己表現しているのか。

歌でなくてもいいじゃない‥。歌が下手で、あるいは曲がろくなもんでないほどそう思ってしまいます。

まして、自分の勉強不足や経験不足、知識不足ももちろんですが、なぜこの詩や詞にこの音楽がついているの?? と理解ができないものは、ますます、唄うように朗読した方が、よほど作品の趣旨にそって、よほどみたされた表現ができるのではないか‥と思ってしまいます。

曲をつけた作曲家や、それを編曲した方々も、真摯に詩や詞を解釈して、それを活かすように誠心誠意、いや、誠心誠意なんて甘いことばです。命をかけてその作業をしたのだと思います、いや、信じて歌いたいと思いますが、実際はどうなのでしょう。

でも、私には、作曲や編曲をした方がどのくらい真剣に詩や詞に向かったのかはわかりませんから、命をかけてそれをやったということを前提として、ならば、こちらも命懸けで歌わなければいけない。

そして、もう一つ、それと同じくらい、歌う人は作曲家の考えも尊重しなければならない。ときには、作曲家の考えと編曲家の考えの両方を。
また、詞や詩について書いてきたことは、詩や詞をともなっていない音楽にもいえます。ある音楽にコトバをつけて歌うということは、ときには思想や解釈を固定して、音楽をせばめてしまうこともあると思います(その意味で、数年前の大ヒット曲はどうも疑問なのですが)。その危険をふくんでコトバをつけて音楽を演奏するならば、それも相当の覚悟が必要だし、つける以上は、コトバもきちんと聴衆に伝えないと‥。

できるできないはともかく、こういう気持ちでやっていきいたと、「歌はなぜ歌か」と感じるたびに最近思います。そうすれば、少しは目ざす何かに近づけるのではないかと‥。

第4回群馬県声楽アンサンブルコンテスト

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平成23年1月30日(日)に行われる表記のイベントに参加します。
(主催の群馬県合唱連盟公式サイトの案内 http://gca.sakura.ne.jp/activity/04.html )。

今年は、

Credo(4声のミサより)
Claudio Giovanni Antonio Monteverdi曲

で参加します。

順番が発表されましたが、一般・混声の部の最後のようで、17:08~の予定となっています(このあと、一般・男声、一般・女声の団体が続く)。

忘年会(クリスマス会)

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2010年12月17日(金)

高崎市あら町のレニエールで行いました。

練習? も少々‥?

高崎市民文化祭に出演しました

来る平成22年11月3日に開催される、高崎市民文化祭の一つである「市民音楽の集い」(高崎市民音楽連盟主催)に参加しました。

演奏曲目
 1.「野菊」
   石森延男作詞 下總皖一作曲 編曲・平吉毅州
 2.混声合唱曲集『空に、樹に…』より「生きる」
   谷川俊太郎作詩・新実徳英作曲

cgi不具合による停止のお詫び

しばらくの間、契約サーバーの移行の後、cgiプログラムの設定の問題から、アクセスできない期間がありました。

先日無事復旧しました。

その間にせっかくアクセスしていただいたのにもかかわらず、エラーとなっていたかと思います。

事情のご説明とともに、お詫び申し上げます。

今後とも、当サイトをよろしくお願いいたします。

4月4日花祭り奉賛会

毎年高崎仏教会からお誘いいただいております花祭り奉賛会は、次のとおり決まりました。

4月4日(日)16時
向雲寺(高崎市下横町3)

なお、例年とおり、奉賛会のあとは花見を行います。
花見は、向雲寺から北へ一本道。途中には高崎城址のお堀も通過しますので、花は十分に堪能できると思います。

そして、花見(酒)会場は、高崎市請地町「はんなり」の予定です(ココスの信号をわたってすぐの左側)。

高崎市に新ホール

タイトルのとおり。

群馬音楽センターという、もはや文化遺産というより歴史的遺産がある高崎。が…キタジマサブロウさんがリサイタルをしたときに「(このホールではダメだから)新ホール建設のために使いなさい」と、ギャラ300万を置いていったとか…たぶん、これは作り話でしょうけれど、『音楽のある街たかさき』を前面に出しておきながら、最近は映画祭の高崎、ばかりで、音楽はすっかり群響だけ、状態でした。だから、音楽ホールも、残響1.3秒という、もはや歴史遺産ではなく、歴史遺物の状態の群馬音楽センターが象徴となっていました。

が、この群馬音楽センターは、音楽施設としてはもはや最前線でなくても、十分に高崎の象徴であるし、残すべき建造物でもあると思います。群馬交響楽団の基点でもあるし、建築は超有名建築家(しかし、そのデザインは、現市庁舎から見下ろすと、「潰れた蜘蛛」みたいで、私はその良さは外観からは感じませんが)の設計。なによりも、市民の手、市民のお金、市民の声でできた、というのは、文化低水準の日本において、高崎市民だけでなくて、日本全体で誇るべき遺物だと思います。そう、でも、遺物なのです。「ここに泉あり」をみるまでもなく!

そんな高崎市で、新ホール建設が方向としては決まりました。しかも、交付金の関係で、平成27年までに作るのだそうです。

個人的には、なぜ、現市庁舎を作るときに、文京区役所のような施設を「音楽のある街」の市庁舎ならば検討しなかったのか、と、いつも思っています。高崎駅から市庁舎まで公営地下鉄とまではいいませんが、庁舎1・2階に大ホールとその関連施設があり、国の施設、県の施設、そしてそれに関係する行政機関をまとめた便利さ。東京らしく、大江戸線の駅が庁舎地下にあり、高齢者でもエスカレーターやエレベーターで行き来できる環境。そして、ホール(文京シビックホール)も、すばらしいホールです。

が、もう高崎市庁舎はできてしまいましたから、次に個人的に願うのは、大宮駅の例。ソニックシティまで駅と一体。そしてソニックシティのホールの評判はここであらためていうまでもありません。

今回も残念なのは、多目的ホールを目指しているそうです。でも、音楽のある街でしょう?? 高崎市は。多目的ホールは、もう既にたくさんあります。音楽専門(ただし、群馬音楽センターが目指したことですばらしいと思うのは、邦楽も意識していたこと。だから、西洋音楽のクラッシックに特化ではなく、邦楽(伝統音楽というのでしょうか)、ロック、フォーク…あらゆる音の芸術に対応できるようにして欲しいというのは私のささやかな願いです。何が多目的ホールと違うか。音楽(古今東西問わず)と、講演や研修のそれとはやはり違うと言わざるをえません。ただ、音楽を基準に作れば、表面的な装飾や装置で、講演、研修などには対応できるはずです。と、いうわけで、多種類音楽対応ホールは期待するのですが、多目的ホールは、すでにある円形ホール、たまごホール、あるいは現在の音楽センターの方がそれに近い対応はしやすいでしょうから、群馬音楽センターを残すならば、それで対応し、「音楽のある街」にそった、音楽関連専門ホールがいいなー。

場所はまだきまっていないそうです。以前私はもしホールを作るならば新保町がいい、とよくいっていました。関越ICから近く(東京や近県の便宜)、また、前橋には市境に近く、現在、桐生や伊勢崎の近代的なホールに集客では負けていることを考えれば挽回できるかと思います。ここに作ると、問題点は高駒線の慢性的な渋滞。でも、渋滞は他で回復するべきものだと思うし、しばしば音楽イベントがある夕方は、混雑する高駒線も、渋滞の時間帯は、逆方向のそれになります。そして、広大な土地。申し訳ないが、破綻したサンピアをちょっと応用して、近隣の畑は相続対策で苦慮している、ということでしたから…。ただ、バカみたいな(失礼(^^;…でも、人口は県内1位になったけれど、人口密度は5位に下がったということからすれば…)合併の結果を考慮すると、現高崎市の東のハズレに作るのは、新高崎市は西側が多いので、新高崎市のみなさんのためにはならないかもしれません(でも、旧吉井町あたりは、上信越道をつかえば、現高崎市庁舎付近の群馬音楽センターより出やすいかもしれません)。

今回は、現もてなし広場、東口栄町Pあたりが最終候補で、他にも3箇所あがっているそうです。
集客を考えると、もてなし広場と栄町Pのいずれかでしょう。そして、もてなし広場は、現在も地方とはいえ「都市」と言われる中心部分に、自由活用の空き地があることは、ある種実験だ、という評価もあるそうですが、その実験は成功していると思います。だいいち、群馬音楽センターのとなりに新ホールを作る意味もないし、高崎市庁舎、このたび移設する図書館などの近隣の施設の応用として、それこそ(ますます)多目的に使える広場は必要ではないかと思います。そういう意味で、個人的には東口栄町P案に期待したいところです。そうすると、実は、大宮駅のようにそこまでつながる構想もあるそうですから。(もうひとつ、微妙にもてなし広場は、東口栄町Pよりも駅から遠いです。これは東京から客をひっぱるイベントでは、いちいち案内係などの動員が必要でランニングコストという点でも不利ではないでしょうか。しかも、いろいろな施設が集まっているので、駐車場確保の問題もあります。その点、東口はなにもない(^^;ので、駐車場問題もクリアしやすいと思います)。

と、いうわけで、大宮駅+ソニックシティをモデルとした東口活用で、文京区役所はもはや手遅れとしても、交通の便宜や、音楽専門ホールとしつつ、(ヤマダ電機のレストラン街があるのが問題なのですが…街づくりとしては、あそこにレストラン街を作ったのは失敗だと思うのですが)文化的な食堂や、ショップなども含めた複合施設ができるといいなー、と思うのでした。

武蔵野音楽大学同窓会群馬県支部主催横山幸雄ピアノリサイタル

当団(含・指導者)には、武蔵野音楽大学OB/OGが複数いますが、その関係で、ご案内です。

横山幸雄ピアノリサイタル
生誕200年ショパンの生涯
2010年1月29日(金)
玉村町文化センターにしきのホール
18:30開場・19:00開演
お問い合わせ:027-261-1332(山田)他
主催:武蔵野音楽大学同窓会群馬県支部

曲目:
バラード1番作品23
幻想即興曲作品66
華麗なる変奏曲作品12 他

1/24 に歌う3曲の個人的な謎

 24日に歌う3曲に、歌うにはどうでもいいかもしれない疑問がそれぞれあります。

 ネットの検索でも調べてみましたが、多数説はあるものの決定的ではないようで。そう、自分の解釈で自分で納得することが大事なのかもしれません。
 「正解はない」と、東京混声の田中信昭先生指揮の演奏機会で、先生が語っていたことを思い出します。

ちなみにその疑問。

1.雪

 定番の疑問の、「雪やこんこ」か「雪やこんこん」か。

 現在の教科書の表記、というレベルでは前者という結論が出ていますが、作者不詳のこの作品で、作者はどちらを意図していたのか。

 多数説? は、いずれにしても最初の「こ」には「来」の字をあてていますが、でも、これ、単純な擬態語でもおかしくないと思います。しんしんと降る雪、という表現は一般的ですが、こんこんと降る、というのでも、すごく情景が浮かんできますので。

 この歌は、子どものころにきいて、ずっと、雪がふることを願っている歌だと思っていました。雪よ降ってください。そうすれば、あたり一面綿のような衣をきて、犬も喜ぶし、僕(子ども)もうれしいです、という子どもとしての願いを込めた歌ではないかと。

 そう解釈すると、雪や来む来む で、こんこんになります。

 「こんこ」とする考え方からは、意味は「ここに降れ」という意味になりやすくなります。でも、そんな自我中心の歌でしょうか?? 関東の子どもなら、上記の私のように雪を思うでしょうし、雪国の子どもならば、ここに降れ、とは逆に思わないと思います。

 だから、これは東京育ちの発想かもしれません。雪は降りすぎない方がありがたい、と、おそらく思うであろう雪国の人たちからみると、とんでもない解釈だろうと。

 そんなわけで、結論は出ていません。

 ただ、大人の心配はよそに、雪がふってきたときの白さへの感動、人間の心配を気にしない動物たち、古今東西たとえがあるように枯れ木の寒々しさをあたためてくれるようにみえる雪。そんな楽しさとありがたさをまずは大切にしているのかな、というのが、一往現在の私の考えです。

2.ずいずいずっころばし

 これは単純に何を歌っているの?? という疑問。

 古謡は、単純に言葉遊び的なものでは? と思うものもあるので、これも、「ずいずい」という言葉をモチーフにした言葉遊びかな? というのが、長年思っていた解釈でした。
 ただ、そうだとしても、時代をこえて残る歌には、隠れた意味があったり、奥深い解釈があるのはよくあること。特に子どもの歌は、子どもへのさまざまな教育が隠されていることも…と、ずっと思っていました。

 そのひとつの有力説が、大名行列(=茶壺)を揶揄し、同時に、子どもに対して、行列が過ぎ去るまではひれ伏して動かないように、と教えている歌だ、という考え方があります。
 なるほど、そういわれてみるとそうとれなくはないかな…。

 ただ、基本的な手法として、この歌の歌詞に漢字をあてるとどうなるでしょうか。
 たとえば、「戸ピシャン!」かな…。
 「ずいずい」は、なんとなく「すみからすみえとずずずいーーーと」の「ずい」だという印象をもっていました。

 ちなみに、物心ついたころ、偶然にアメリカのアニメ「Tom&Jerry」が好きでした。そのイメージと重なって、私にとってはこの歌はしばらくのあいだ、Jerryの歌でした。JerryをおいかけるTomと、その二人が巻き込んだ廻りのドタバタを表現しているように感じていたわけです(Jerryなら、茶壺を楯にしたり、戸をピシャンとしめたり、そしてTomが目をまわしているあいだに米も食べるだろうし。Jerryをおいかけるのに夢中のTomは買主が呼んでも知らんぷり。ドタバタでお茶碗のひとつやふたつは割っていることでしょうし…と、いう具合です)。きっと、茶碗を欠いたのは、Tomでしょう…。でも、あのアニメのリズミカルな展開と、この歌の展開は、似ていると、今でも思います。

 で…、結局なんなんでしょう。

 歌詞はわからないのですが、単純な言葉のリズムを楽しむ歌だとすると、それをどうして平吉先生はこのように編曲したのか?? 男性と女性の2声のカノンのような部分もあり、かといって、縦が揃うと、5度の和音が印象的で。男と女を猫とネズミにたとえて、日本古謡的な和声をきわだたせることを意識した作品、と、私の上記の印象(決して、理解とか解釈というレベルではないのですが)からは、思われます。

3.ペチカ

 細かい解釈(たとえば、よく出てくる「栗や栗や」の意味etc)以前に、この歌の主体は誰なのか。私はここで一番理解に悩みます。考えられるのは
 1.ペチカを擬人化して、ペチカが主体
 2.ペチカのある部屋にいる人間
 3.ペチカで団欒している家族を語るナレーター
たぶん、素直に考えると2.でしょう。
でも、4番の歌詞などは、ペチカの心情を歌っているようにも思いますから1.です。
部分的にどちらにも取れるので、だから3の考え方がむしろ無難にも思います。

それによって、「お話ししましょ」は、誰が誰に語っているのかかわってきます(当然そのあとの「むかしむかしよ」も。
「ペチカ燃えろよ」は、自分に語っているペチカ、というのも考えられなくはないですが、ここの部分は、2か3でしょうか。

そして、歌として表現するとき、この1~3のいずれかによって、まったく表現はかわるような気がします。だから、根本的だし、一番大事な解釈だと思うのですけれど。

 北原白秋の時代を考えると、擬人化する手法は既に存在していて(真偽はわからないが、「我が輩は猫である」がその先駆け、という考え方があるそうですから。1905年の同作品よりも25年ほど遅く発表されたことから)、それを取り入れた、ということで1.も十分に考えられるように思います。完全に1.でないとしても、「楊ももえろよ」の「もえろ」は、「(ペチカ)燃えろ」と「やなぎ(萌えろ)」を重ねた技法という解釈もあるそうで、白秋は意図的にどちらにも解釈して、鑑賞者にまかせたようなところはなかったでしょうか。

 ちなみに、いろいろ調べる前は1.だと思っていました。ペチカという暖房方法から、人の少ない山小屋のような印象がなんとなくあったので、自分を燃やしてあたたまってくれる人がいることがペチカもうれしいし、そんな人とお話しもしたいし。でも、自分があたためている人にとっては、春が待ち遠しいのだろうと、(自分が使われなくなるのを承知の上で)春を一緒に待ち望むような。そんな優しいペチカを擬人化したもの、というふうに考えていたわけです。

 結局わかりませんが、一般に、ペチカという暖房方法は、やさしく、ふかく、じんわりくるような温かみがあるとされています。単純に、そういうやさしさをペチカにたとえて白秋が書いた、という考え方もありかな、と、なんとなく思っています。

 余談ですが、山田耕筰が「ペイチカ」と歌うことに晩年はこだわっていたという話があります。白秋は既になくなっていますから、白秋がこれに賛同したかどうかはわかりません。ただ、白秋はペチカで作っているのですから、かってに「ペイチカ」にするのは、いかに山田耕筰大先生でもいかがなものかと…(白秋の著作者人格権・同一性保持権侵害です)。それに「赤とんぼ」論争からいわれるように、言葉の抑揚などを大事にしたとする山田先生ならば、最初からペイチカならば、作曲もかわっていたように思います。逆に、そういう問題があるのにこだわったほど、重要な意味があったのかもしれません。

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